国境の長いトンネルを抜けると、霞んだ海が見えてきた。
高梨千花はずっと窓の外を流れていく景色を眺めていた。
連れとはもうずっと会話もない。会ってから一度も会話らしい会話をしていない。
――私は何故、こんな汽車に乗っているのだろう。
* * *
昭和十年、春。
東京市に入ってから何度か汽車を乗り換え、名も知らぬ駅について千花は周囲を見回した。線路に沿って川が流れている。その向こう岸には建物が建ち並び、活気のある街の様子を呈していた。
「――こっちだ」
名も知らぬ連れの男に呼ばれ、千花は小さな手提げ鞄を持って男の元へ歩いていった。
「遅い」
「…………」
千花は何も言えず、顔を伏せて立ち止まった。
恐ろしかった。この名も知らぬ男が何故私を此処――東京に連れてきたのか、全く解らなかった。
千花は西の方の農村で生まれ育った。お世辞にも裕福な家庭とは云えず、いつも兄姉たちと農作業を手伝っていた。身体の小さな千花はいつも足手纏いで、親や年上の兄から叱責されてばかりの毎日だった。
そんなある日の事だった。両親に家の居間へ呼ばれた千花は、突然見知らぬ男を紹介された。お前にも出来る仕事があるからこの人について行きなさいと言われ、意味も解らず千花は頷いた。足手纏いの私でも家の役に立てるのならと思っての事だった。
その日すぐ、千花は男と共に夜行列車に乗った。客車の硬い座席にずっと座っていた。初めての遠出と云う事で期待に胸を膨らませていたのだが、徐々に不安が大きくなっていた。何故なら向かいの座席に座る男は全く千花と話をしようとしないからだ。
時折此方を見遣る視線がとても醒めたもので、千花は彼に気付かれないように顔を伏せ、眠ったふりをしていた。
「ふん――」
鼻を鳴らす男が怖くて、千花はずっとまんじりともせずに車内で過ごしていた。
* * *
駅を出た千花は男に手を引かれ、活気のある街の坂道を登っていった。手を引かれと云っても、連れて歩くと云う雰囲気ではない。まるで千花が逃げるのを防ぐかのように、しっかりと手首を掴まれていた。
半ば引き摺られるようにして千花は狭い路地に連れ込まれた。今更になってやっと危機感を覚え身体を強張らせるが、逃げ出す事も出来なかった。
男が足を止めたのは、武家屋敷のような門の前だった。
「あの……此処は……?」
「入れ」
男に突き飛ばされ、千花は数歩たたらを踏み門にぶつかった。
「きゃっ……」
足が縺れ、地面に蹲る。
「旦那ァ、品物を粗末に扱っちゃいけませんぜ」
門の内側から男が出てきた。千花が今まで見たこともないような厳つい顔をしている。一目で堅気ではないと知れる風貌だ。
「心配せんでも、手は出しておらんよ」
「ヘッ――そいつは重畳でサァ」
男はじろじろと舐め回すように千花を見る。その不快感に千花は起きあがる事も忘れ身体を強張らせた。
「サァ――来いよ」
男に腕を掴まれて引き起こされる。
「なっ……何ですか……?」
訳も解らず、千花は此処まで自分を連れてきた男を見る。
「――まだ解らないのか」
男は僅かに口端を歪めた。
「お前は売られたんだよ」
「――ッ!?」
一瞬、目の前が真っ暗になった。気が遠くなり千花は蹌踉めくが、男に握られた腕が痛くてすぐ我に返る。
「今時親に売られるなんざ珍しくもねえだろ」
厳つい男の野卑た物言いに耳を塞ぎたくなる。
「そう難しい仕事じゃねえんだ、しっかり働いて貰うぜ」
「厭ッ!!」
一瞬、男の力が緩んだのを見逃さず、千花は腕を振り払った。
「テメッ!!」
男が掴もうと手を伸ばしてくるが、一瞬早く腕をかいくぐって千花は走り出した。
「待ちやがれっ!!」
男の罵声を背中に聞き、千花は右も左も判らぬ街を逃げ出した。狭い路地を駆け、適当に角を曲がる。すぐ後ろに男が居るような気がして、怖くて振り向く事も出来なかった。
「はっ、はっ……」
息が切れる。それでも走っていられるのは家の作業を手伝っていたからだろうか。いや――単に背後に迫る男たちが恐ろしいからだろう。
もういくつ角を曲がったのか判らない。手提げ鞄がない。さっきの場所に置いてきてしまったようだ。どうせ着替えくらいしか入っていないのだけど――
と、千花は不意に立ち止まった。お金も持っていない。さらに見知らぬ土地。こんな処で逃げたって、何処へも行けない――助かる術がない。
「あ……ああっ……」
その場に蹲る。今更になって耐え難い絶望感が千花を襲っていた。今からさっきの男の処へ戻ろうか――いや、そんな事出来る訳がない。かと云って家に帰る事も無理だ。遠すぎる――距離も心も。
「――どうした?」
不意に声を掛けられ、千花は涙に濡れた顔を上げた。年配の男だった。先程のような野卑た男ではない。顎の辺りに深い傷痕があった。
「あ……あっ……」
言葉にならない。優しい声音に誘われるように、千花はその男の脚に縋り付いた。
「参ったな……」
困ったような男の声にも構わず、千花は止まらなくなった涙を流し続けた。
* * *
「こんな処にいやがったか」
聞こえてきた粗暴な男の声に、千花は息を呑んだ。
「ヘッ……今更逃げられると思うなよ……」
「いっ……厭っ……」
「――逃げてきたのか?」
取り縋った男に尋ねられ、千花は小さく頷いた。
「オッサンよォ……邪魔するんじゃねえぞ」
「――ふむ」
彼は小さく頷くと、千花の手を取って立ち上がらせた。
「ウチは店を出したばかりだから、あまり面倒事に巻き込まれたくない」
「っ――!?」
「ヘッ……賢い選択だな」
「――俺には関係のない事だ」
何が――?
千花はおろおろとするだけでどうする事も出来ない。
「オラッ、こっち来いよっ!」
腕を掴まれ、彼から引き剥がされる。
「テメェは親に売られたんだ。代金千円分はしっかりと働いてもらうぜ?」
「……解りました」
もうどうしようもない。
この先どんな事をさせられるかは解らないが、この人たちに付いていくしかない。
そうしないと――生きてはいけない。
「ヘッ――やっと大人しくなったか」
何を言われても、千花はもう何も考えられなくなっていた。
彼女にはもう、帰る場所がないのだから。
* * *
呆然としたまま千花は男に手を引かれて歩いていた。
もう逃げ出すような気力もない。
ただ空虚な気持ちで、朧気な街を歩く。
「――ッ」
急に男が立ち止まり、千花は鼻を男の背中にぶつけてしまった。
「――待てよ」
さっきの彼が道を塞ぐように立っていた。
「何だオッサン? まだ何かあるのか?」
千花の手を引いていた男が凄むが、彼は涼しい顔で懐から取り出した封筒を投げて寄越した。
「――二千円ある。釣りはいらんよ」
「ハッ、何を――」
男はそれ以上何も言えなかった。
「ゲフッ!?」
男の身体が吹き飛ぶ。
「――こいつはおまけだ」
男を殴った体勢のまま、彼はそう吐き捨てた。
* * *
千花は彼に連れられ、先程の路地に戻ってきた。
安心したのは一瞬だった。先程と自分の立場が何も変わっていない事に気付いたのだ。
「――心配せずとも、俺は女房に操を立てているから大丈夫だ」
彼は少々戯けたように言うと、すぐ側の店の扉を開けた。
「まだ開業準備中だがな」
扉を支えたまま千花を招き入れる。其処は瀟洒[な喫茶店のようだった。
「ジャズ・バーをやろうと思っているのだが、生憎と従業員がいなくてな」
意味が解らず、千花は彼の顔を仰ぎ見た。
「此処で働く気はあるか?」
「えっ……?」
「俺はお前さんを買った訳じゃない。此処で働いて貰うために雇ったんだ」
「あ……」
何と言えばいいのか解らない。
何が起こったのかすらも解らない。
ただひとつ解る事は――
「よ……宜しくお願いしますっ……」
帰る場所が新しく出来たのかもしれないと、千花は朧気に感じていた。