『――入学式に参加される方は至急講堂へお集まりいただきますようお願い致します』
ノイズ混じりのアナウンスが構内に響き渡る。綾音はその声を聞きながら桜の花びらが舞う道を小走りに駆け抜ける。
「はっ、はっ――」
講堂はどっちだっただろうか。
昭和九年、春。
白河綾音が東京へ出てきて初めて迎える季節。
同じ時期の故郷と比べて、随分と暖かい。
人が多いからだろうか。
新入生らしき一団を見つけ、綾音はその最後尾に並んだ。全く違う行列だったらどうしようとなどは考えない。これが買い物の行列だったって構うものか。
幸いにも綾音の予想は当たったらしく、行列はそのまま講堂と思しき方向へ進んでいく。
――少しだけほっとした。
女子専門学校と云う特殊な学校の所為か、新聞記者も幾人か訪れているらしく、手帳片手にこちらへカメラを向けてくる。伏し目がちになる者が多い中、綾音は真っ直ぐに前を見据えていた。
目立ちたいつもりはないが、必要以上にこそこそとしたくはない。
顔を上げていた綾音は、ひとりの女性記者に気付いた。帽子を被り、一心不乱に手帳へペンを走らせている。
目が合った――ような気がして、綾音は彼女に会釈をしてすぐ前を通り過ぎた。
――やっぱり、働く女性は格好いいな。
入学式は恙なく終わり、綾音は他の新入生たちと教室へ戻った。
多少緊張していたものの、地元の学校へ通っていたときと何も代わり映えはしなかった。
だから、だろうか。
綾音はいつも通りの気易さをもって級友に接してしまった。
「岩手から来ました白河綾音です。皆さん宜しくお願いしますっ」
綾音がそう挨拶した途端、教室内には一瞬の静寂の後にくすくすと忍び笑いが洩れた。
「田舎者」や「世間知らず」等、そう云った貶[みの言葉が綾音にも聞こえてくる。
そんな悪口に黙っていられるほど、綾音は大人ではなかった。
「誰ッ!?」
キッ、と教室内を睨み付けるも、誰も綾音の目を見ようとはしない。それなのに陰口ははっきりと綾音の耳に届いてくる。
「はしたない娘」「これだから田舎者は」「常識がないのかしら」揶揄の声がそこかしこから洩れてくる。
悔しかったが、綾音はそれ以上何も言わなかった。――言えなかった。
言うだけ無駄だと悟ったのだった。
綾音は昔から思った事をはっきりと言う娘だった。いや――口に出すよりも先に行動に移してしまうきらいがあった。だからこそ、実家を飛び出して東京まで出てきてしまったのだが。
腹は立ったのだが、それを此処で質しても詮無き事だ。それならば陰口は無視すればいい。
それくらいの事ならば――綾音にも我慢は出来る。
――そうして、暫くの時間が過ぎた。
その日も綾音は間借りしている女子寮の住人と諍[いを起こし、夜の街へ飛び出してしまった。
行く宛など何もなかったが、ただ部屋でじっとうじうじとしている事などとても出来なかった。
ネオン煌めく繁華街を歩く。
寮を飛び出してから此処までずっと歩いて来たのだが、さすがに疲れていた。
綾音は周囲を見回した。何処かの店に入って休みたかったが、料亭や遊郭ばかりで綾音に合っている店は見当たらない。
仕方なしに、大通りから逸れて細い路地に入った。
何処からかピアノの音が聞こえてきた。
綾音は周りを見回し、近くのバーから流れているのに気付いた。
壁に《CADENZA[》とネオンが輝いていた。
扉に手を掛け、綾音は暫し逡巡する。
雰囲気にそぐわなかったらどうしよう。
すぐ出てくるのも気まずい。
でも、入ってみなくては判らない。
意を決し、綾音は扉を開けた。