その昔、自由と云う言葉は存在しなかった。
さる高名な作家が"Liberty"の訳語として仏教用語から選んだのが始まりらしい。
そんな難しい事、アタシには解らない。
ただその語感に憧れて――アタシはそれを求め続けた。
* * *
昭和九年、秋。
韮崎璃宝が日本へやってきてから二年と少々の月日が過ぎていた。
来日直後の泥まみれの日々から抜けだし、ようやく人並みの生活が送れるようになった頃だった。
璃宝は銀座にあるホールで歌を唄うようになっていた。元々素質があったのだろう、評判も上々だった。
偶に勘違いした紳士風の客が肩に手をかけ口を寄せてくる事もあるけれど、もうそんな男たちに頼る必要もなくなっていた。
この国に来てから――いや、この世に生を受けてから初めての自由を璃宝は謳歌していた。
気儘に唄い、酒を飲み、気に入った男と肌を重ねる。そんな日々が暫く続いていた。
ある日の事だった。いつものように予定時間より少し遅れて店にやってきた璃宝は、店の裏手で店長と誰かが揉めているのに気付いた。
「駄目だと言ったら駄目だ!」
店長が捲し立てている相手は若い男のようだった。少し赤みがかった髪に薄汚れた身形。何処かの浮浪児だろうか。
「少しくらいいいだろ」
彼はぶっきらぼうにぼやく。
「どうしたのかしら?」
璃宝はゆっくりと歩み寄ると店長に問い掛けた。
「韮崎君か……。いや、此奴がウチでピアノを弾かせてくれと五月蠅いんだ」
「ピアノかい……?」
璃宝は彼を見る。とてもピアノ弾きには見えない風体だ。どちらかといえば用心棒のような、喧嘩慣れしているような印象を受ける。
「手を見せてごらん」
ポケットに入れられていた手を出させる。少々骨張ってはいるが大きめの掌で、指も大きく拡がるようだ。
「……なんだよ」
「――少しくらいいいんじゃないかしら?」
璃宝は店長の方に振り向いて提案した。
「しかしもう店も開いているし……」
店長が渋るも、璃宝は意に介さず彼の腕を取った。
「どの程度の腕かは、お客が判断してくれるわ」
そのまま彼の腕を引き、控え室へ連れて行く。
「せめてお客の前に出られる格好じゃないとね」
部屋に残されていたシャツや燕尾服を彼に渡す。
「……何故だ?」
「その格好じゃお客に物を投げつけられるわよ」
「そうじゃない。……何故俺を試す気になった?」
彼は不思議そうに訊ねてくる。
「別に。ただの気紛れよ。ただ唄うのも飽きちゃってねぇ」
「フン……」
俺は暇つぶしかよと、彼は溜息混じりにぼやいた。
* * *
彼がピアノの前に腰を下ろし、鍵盤に手を置く。
璃宝は近くの椅子に座り、ワイン片手に彼の演奏を待つ。
特に期待はしていない。
それでも何かを感じたのは、ただ彼が自分の好みだからだろうか。
ざわつく店内に、そっとピアノの音が流れる。
「ふうん……」
細巻き煙草を口に銜えたまま、暫しその音色に耳を傾ける。
悪くはない。
いや、悪くないどころか――
「――どうするつもりかしら?」
傍らの店長へ目線をやる。
「駄目だ」
店長はにべもなく斬り捨てた。
「あんな素性も知れない奴、雇える筈がない」
すっ、と璃宝は目を細める。
「――素性も知れないアタシを雇ったのに?」
「いや、それは……」
……こう云う時、男を可哀想に思う。
女ならば――アタシなら幾らでも気を惹く術は心得ているのに。
璃宝は立ち上がるとピアノへ近付いた。
「――なんて曲だい?」
「知らん」
彼は素っ気なく呟く。
まるで雇われる事がないと解りきっているようなぞんざいな口調。
「適当に弾いただけだ」
「適当……だって?」
璃宝は耳を疑った。てっきり何らかの元がある曲だと思ったのだ。
「――邪魔したな」
彼は立ち上がると璃宝に背を向けて歩き出した。
「待ちなさい」
璃宝は彼を呼び止めた。何故そうしたかは自分でも解らない。ただ何とかしてやりたかった。
「――雇ってあげてもいいわよ」
「おい――」
店長が口を挟もうとするのを横目で睨み付けて黙らせる。
「構わないでしょう? 別に」
ああ――厭だ。
他人の為に色目を遣うなんて――
* * *
店長を頷かせた後、璃宝は彼に夜道の共をさせて帰路を歩いていた。
「――何故だ?」
彼は相変わらずの素っ気なさで璃宝に問い掛けてきた。
「別に――唯の気紛れよ」
璃宝はそう嘯くと、彼の腕を取った。
「さあ――行きましょう」
「何処へ行くつもりだ?」
「アタシの部屋よ。……解ってるんでしょう?」
「ん……?」
彼は首を傾げる。解っていてとぼけているのだろうか。
それとも――
「貴方、経験は?」
「何のだ?」
艶のある声で訊ねたのに、彼は全く反応を示さない。
――まあ、そう云うのも悪くはないけれど。
「これから教えてあげるわ。いろいろと……ね」
そう囁きながらも、璃宝は何処か醒めた目で彼を見つめていた。
アタシと彼はとてもよく似ているような気がする。
何処がどう、とは言えないけれど、孤独を好みそうな処や、その癖ひとりでは生きていけない事を自覚していそうな処が、自分と重なって感じる。
彼となら、付かず離れずで居ればうまくいくかもしれない。べったりになってしまえば捨ててしまえばいいだけ。
ピアノの腕は惜しいけれど、アタシの自由と引き替えにする程じゃない。
「そういえば――」
と、璃宝は彼の方に振り向いた。
「ん?」
「貴方の名前を訊いていなかったわね」
「……玖藤奏介」
彼――奏介はやはりぶっきらぼうに、面倒臭そうに呟いた。