赦す事は出来なかった。
 彼は全てを奪っていった。
 相馬葵にとって、彼に復讐する事が生きる意味の全てだった。

*    *    *

 昭和十年、秋。
 相馬葵は真新しいスーツに身を包み、緊張した面持ちで椅子に腰掛けていた。
 広い室内には、今は葵ひとりしか居ない。先程この部屋で待つようにと言われてから五分ほどは経過しただろうか。
「――待たせたな」
 野太い声と共に、巨漢の老人が部屋に入ってきた。
「いえ……」
 葵は立ち上がり、老人に向かって一礼する。
「さて……相馬葵と云ったか」
「――はい」
 椅子に座り直し、葵は老人を正面から見つめた。左目の眼帯が彼の表情を覆い隠している。
 彼はじっと書類を眺めている。
 居心地が悪かった。
 老人の名は逢禅寺清正、自らが経営する会社の会長を務めている。葵は其処の就職面接へやってきたのだが、まさか会長直々に面談する事になるとは思ってもみなかった。
「――お主の事は少し調べさせてもらったよ」
 その逢禅寺の言葉に葵は背筋を正した。
「なるほど……面白い」
 葵の経歴のことを言っているのだろう、逢禅寺は口許に笑みを浮かべ、太い葉巻を手に取った。
「彼が此処に居る事を知っていたのかね?」
「……はい」
 葵は頷く。そもそもその為に此処の面接を受けにきたのだ。
「彼奴はこの事を――?」
「……知る筈がありません」
 これは葵が自分で決めた事だ。そうでなければ意味がない。
「ふむ――」
 逢禅寺が葉巻に火を付ける。
「お主は何が出来る?」
「何でもやります」
 葵は即答した。
「どんな仕事であれやり遂げてみせます。例えそれが――」
「――良い眼をしておるな」
 逢禅寺は葵の言葉を遮り、じっと見つめてきた。文字通り蛇に睨まれた蛙のように葵は動けなくなる。
「並々ならぬ決意を感じる。成程――」
 逢禅寺はひとり納得し、何度も頷いた。
「女子供であれ、祖国を思う気持ちは同じ。お主ならばさぞかし役に立つであろうな」
「――ありがとうございます」
 葵は頭を垂れ、礼を述べた。だが頭の中では全く別の事を考えていた。
 彼女にとって国の為とか、そう云う詭弁は何の意味も成さなかった。ただあるのはあの男への執拗なまでの復讐心だけだ。
「――まずは暫く、儂の秘書をやって貰う事になる」
 逢禅寺は葉巻を高級そうな灰皿に押しつけ、右目だけで葵を睨め付けてきた。
「仕事に慣れたならば――もうひとつの事業の方を任せる事になるだろう。そちらに――彼奴も居る」
「――宜しくお願い致します」
 葵は平静を装いつつそう頭を下げた。だが握り締めた拳の震えだけはどうしても止められなかった。