「俺の事は放っておけよ」
「そうはいかないでしょ? こんなに怪我しちゃってるのに……」
 腫れた頬に軟膏を塗りつけながら美華夏は奏介に対して愚痴をこぼす。
「いつもの事だ」
「だからって……」
 猶も言い募ってくる美華夏を無視し、奏介は立ち上がった。
「――俺に構うな」
「ちょっと――」
 手当も途中のままその場を後にする。
 まだ殴られた箇所は痛むが、此処に留まって美華夏の言葉を聞いている方が奏介には耐えられなかった。

 昭和五年、夏。
 玖藤奏介は久方振りに帰ってきた橘家の一室で床に大の字で寝転がった。大きなベッドはあるが、とても其処へよじ登るような気分にはなれなかった。
 此処は確かに奏介の部屋だ。だが大震災によって住む家を喪い、この家に引き取られてから七年、奏介がこのベッドを使った事があるのは両手の指に満たないだろう。
 奏介はいつも街の片隅でぼろ布にくるまって眠っていた。雨が降ろうと雪が降ろうと、滅多な事でこの家へ戻っては来なかった。自分の家はもう無いのだと云う考えが奏介を支配していた。
 だから此処は唯の知り合いの家。唯妹の柚芭が預けられているだけの家だ。
 喧嘩で殴られた頬がやけに痛んだ。

 橘邸に戻って二日、奏介は部屋で微睡んでいた。大した怪我でもないのだが、慌てて出て行くような後ろめたさも理由もなかった。昨日は一日中柚芭に付きまとわれて少々窮屈に感じていた事もあったのだが、久し振りの家族との再会なのだから仕方がないのかもしれないと奏介は思う事にしていた。
 柔らかい布団は落ち着かない。奏介は床に毛布を一枚だけ敷き、その上に寝そべっていた。洋風建築の部屋は広く、生活感もない。奏介の部屋として与えられた場所ではあるが、部屋の主が居なかったのだから仕方の無い事だろう。
「――くだらねぇ」
 目を瞑ったまま呟く。今自分が置かれている境遇も、怪我をした理由も、生きている理由も何もかも。
 奏介にとって、震災後の七年間は在って無いようなものだった。ただ漠然と生きていた。生きていると実感できるのは喧嘩と飯にありつけた時くらいだった。
 ――これでは、死者と何も変わらない――
 実際、七年前に死んでおけば良かったと奏介は思う。あの時死んでいれば今更こんなくだらない事で悩んだりはしていないだろう。
「ハッ――」
 厭な深みに嵌りそうになり、奏介は思考を中断させた。やけに身体が汗ばんでいた。夏の陽光が室内に射し込んでいるからだろう。
 そう納得し、奏介は立ち上がると窓へ歩み寄った。硝子窓を開けると、夏の湿った熱い風と共に澄んだ音が流れ込んできた。
 ピアノの音――だろうか。階下の音楽室からだろう。美華夏の両親は著名な音楽家で、美華夏も幼い頃からピアノのレッスンを受けている。
 ふらりと奏介は部屋を出ると階段を下り、音楽室の重い扉を押し開いた。なおいっそうはっきりとピアノの音が耳に飛びこんできた。
 ピアノの響板に映っているカーテンが風に揺れている。椅子に腰を下ろし、美華夏が譜面台に置かれた楽譜を見ながら指を鍵盤の上で滑らせていた。
 余程集中しているのか奏介が部屋に入ってきた事にすら気付いていないようだった。奏介は窓際へ移動すると、美華夏の肩越しに鍵盤を眺めていた。
 不思議なものだと奏介は思う。ただ並んでいるボタンのようなものを押すだけで綺麗な音を奏でる大きな箱。
 不意に曲が途切れた。
「……何時から居たのよ」
 肩越しに奏介を睨み、美華夏が呟いた。
「……何時からでもいいだろ」
 奏介は目を逸らす。彼女の演奏に聴き入っていたとは口が裂けても言えなかった。
「怪我はもういいの?」
「そもそも寝込むような怪我じゃねえよ」
「……あ、そう」
 美華夏が椅子から立ち上がる。
「どうした?」
「休憩よ。……ホント、こんな事お嬢様みたいで厭になっちゃう」
 お嬢様だろ、と奏介は口に出さず呟く。
 美華夏が出て行き、奏介はひとり部屋に取り残された。目の前には鍵盤の並んだピアノ。  そっと指で触れると、ポン――と音が鳴った。奏介は椅子に腰を下ろすと両手を鍵盤の上に乗せた。先程美華夏が弾いていた曲を思い出す。確か始まりは――
 奏介はゆっくりと指を動かす。ただ鳴っていただけの音が繋がりを持ち、旋律を作っていく。
 これは――楽しいかもしれない。奏介は目を閉じ、曲を思い出しながら演奏を続ける。
 窓から吹き込む夏の風が奏介の頬を撫でる。何時しか右手だけでなく左手も鍵盤を叩いていた。美華夏が弾いていた音楽はいくつも音が重なっていたからだ。
 奏介は何も考えず、ただ演奏を続けていた。美華夏の憮然とした視線に気付いたのは奏介が演奏をやめ、微かな満足感を得ていた時だった。
「……何見てんだよ」
「奏介……貴方ピアノ弾けたの?」
 不思議そう――と云うよりも何か奇妙な物を見るような目で美華夏は訊ねる。
「まさか。ただ真似しただけだ」
「真似しただけって……そんな事出来る筈ないじゃないっ!」
 ピアノへ近付いてきた美華夏が譜面台に置かれていた楽譜を取り上げる。
「そんなのが俺に読めると思ってるのか?」
 機先を制し美華夏に告げる。何の知識もない奏介が楽譜を読める筈もなかった。
「でもっ……!」
「ハッ――くだらねえ」
 奏介は乱暴に立ち上がると美華夏の側を通り過ぎ、部屋を出ようとした。
「待ってよっ」
 その腕を美華夏が掴む。
「……何だよ」
 睨み付けるが、美華夏はその程度では怯まない。怯むどころか逆に奏介を莫迦にしたような笑みを浮かべた。
「……あんたが楽譜を読めないのは解ったわ。ト短調の曲がハ長調になってるんですもの」
 半音ずれているのよ、と美華夏は得意気に手に持った楽譜の先頭を指差した。

 ――その後、奏介は美華夏の父の薦めにより音楽の道を歩む事になるのだが――
「――父さんの音楽指導の熱意が私から奏介へ向かった事には感謝しておくわね」
 美華夏の父による熱血指導が奏介の身に付く為には、さらに数年の歳月を必要とするようだった。