「そっちへ行ったぞ、菱谷ッ!」
 狭い路地に同僚の怒号が響く。
「わーってますって!」
 走りながら琢磨は大声で返事をする。この辺りは昔から駆けずり回っていた処だ、引ったくり風情が逃げようとする道順ははっきりと判る。
 煙草屋の角を曲がり、大通りへ抜ける細道を走る。雑踏の中に紛れ込もうとしていた引ったくりの後ろ姿を見つける。
「このっ!」
 後ろから飛びつき、地面に組み伏せる。
「大人しくしていやがれ」
 男が握っていた女物の手提げ袋を奪い取る。
 ったく――
 引ったくり犯との追いかけっこなんざ、捜査課のやる仕事じゃねえよな――

    *    *    *

 昭和十一年、春。
 菱谷琢磨は警視庁の捜査課に配属されたばかりの新人刑事だ。とは云え、配属されてすぐに成果を上げる事など出来る筈もなく、ただ悶々とした日々を過ごしていた。
 偶にやる事と云えば、今日のような引ったくり犯の捕縛だ。派出所勤務時代の同僚に頼まれては厭とは言えない。しかもそんな管轄外の事に許可を出す課長も問題があるのではないかと思うのだが、課内で一番下っ端の琢磨には何も言えなかった。
「腐るな、菱谷」
 先輩の刑事が声を掛けてきた。
「有島さん……」
「我々が暇な事は平和の証だ」
「ですが……」
 琢磨は有島に向かって抗弁しようとしたがすぐに止めた。唯の愚痴でしかない。確かに事件がないと云う事は平穏な証拠なのだ。
「そのうち厭でも駆けずり回る羽目になるんだ、休める時に休んでおいた方がいい」
「……そうですか」
 納得は出来なかったが、それでも納得するしかなかった。

    *    *    *

 数日後、署に駆けつけた琢磨は外出の準備をしていた有島に声を掛けた。
「有島さん! 何があったんですか!?」
「――早く支度をしろ、菱谷。事件だ」
「はっ――はいっ!」
 詳細も聞かされずに琢磨は準備を始める。とは云え手帳と筆記具を持つくらいだ。拳銃くらいは持っていたいのだが、上司である有島が許可してくれなかった。
「菱谷、急げよ」
「解ってますって!」

「――有楽町へ急げ」
 黒いフォードに乗り込むなり、有島は琢磨に向かって指示を飛ばす。
「俺が運転ですか?」
 助手席に乗り込んだ琢磨がちらりと後部座席の有島を見る。
「当たり前だ」
「……解りました」
 運転席に座り直し、琢磨は車を発進させた。警視庁から有楽町はすぐ近くなのだが、警察の対面を保つためなのか必ず移動には車を使う事になっていた。
 道路に出て桜田門を曲がり、有島が口を開いた。
「――いきなり男が暴れ出して通行中の市民に襲いかかったそうだ」
「事件の内容ですか?」
「ああ、そうだ。それだけならば我々が出る事もないのだが、厄介なのはその場に憲兵隊が居合わせた事だ」
「何故そんな処に憲兵がいたんですか?」
「さあな。連中の考えている事など解らんよ」
 有島は盛大に溜息を吐いた。
「さらに面倒なのは、その憲兵隊が暴れた男を射殺した事だ」
「それは警察権の濫用ではないのですか?」
「それをこれから調査する。当初は我々の介入すら赦さない雰囲気だったのだが――」
「……無茶苦茶ですね」
「二月の事件以来連中も気が立っているからな」
 有島は二月末の陸軍の反乱の事を言っているのだろう。当時琢磨はまだ派出所勤務だった為に深く事件に関わる事はなかったが、警視庁は反乱軍の部隊に襲撃され、さしたる抵抗も出来ずに制圧された。
「重火器を向けられては、拳銃しか持てない警察には太刀打ちできんよ」
「……そうですね」
 頷き、琢磨は運転に集中する。警官が事故を起こしては溜まった物ではない。
「――彼なら、憲兵相手でも物怖じせずにやれるのだがな」
「……誰です?」
「私に捜査のイロハを教えてくれた人だ」
 有島は後部座席で帽子の鍔を軽く下げた。
「私よりも数年前から捜査課にいた人だ。部下の面倒見も良く、現場でも辣腕を振るって様々な難事件を解決してきた。……素晴らしい人だった」
 琢磨は静かに車を路肩に駐めた。
「有島さん、着きました」
「――ああ」
 ゆっくりと頷き、有島が車の外に出る。
「――有島さん」
「……なんだ、菱谷」
「その人は……今はどうしているんですか?」
 少なくとも琢磨は、有島の言っている人物に心当たりは無かった。
「――辞めたよ、何も言わずにな。妻も娘もいた筈なのだがな……」
「……そうですか」
「さて――仕事だ、菱谷。成果のあがらない、な」
「解ってますよ」
 向こうが憲兵隊では、此方など相手にもされないだろう。それでも琢磨は警察官なのだ。どんな事件であろうと最善を尽くさねばならない。例え引ったくりだろうと、その被害に遭った人にとっては重大な事件なのだから。