「マスター、お酒の瓶はちゃんと元の処へ戻してくださいっ!」
「ん――ああ、ここではなかったか」
 千花に指摘され、護堂は渋々棚に置いたばかりの酒瓶を別の処へ移した。
「そっちでもありませんよっ!」
「……俺が覚えていればいいじゃないか」
「マスターがすぐ忘れちゃうから場所を決めたんじゃないですかっ!」
「むう……そうだったか?」
 護堂は千花に押されつつ、渋面になりながら肩を竦めた。

*    *    *

 昭和十年、冬。
 神楽坂の路地裏に《CADENZA》が開店しておよそ半年ばかりの時が過ぎた。
 順風満帆――と云えるだろうか。客もいくらかは入るようになり、常連もついた。それでも開店時の初期投資を回収できるのかと問われれば極めて怪しいのであるが。
 それでも道楽で始めた店なのだから構わないと護堂は考えていた。
 そうでなければ、三人も従業員を雇わない。
「――千花、予備の手拭いは何処に仕舞った?」
 床を箒で掃いていた千花が振り返る。
「二階の倉庫だと思いますけど……」
「そうか」
「あの……取ってきましょうか?」
「いや、いい。俺が取ってくる」
 従業員とはいえ、そういくつも仕事を押しつける訳にもいかない。護堂はカウンタを出て、店の奥へ続く通路へ入った。
 まっすぐ行けば休憩用の小さな部屋がある。右は厨房、左側に入る廊下には浴室へ行ける扉があり、その向こうに階段がある。
 積まれた空き瓶を避け、護堂は階段を上っていった。二階には向かい合わせに扉がある。表の道路に面している方、丁度店の真上にあたる部屋は此処に住み込んでいる千花の居室だ。
 護堂は反対側の扉――襖を開けた。畳が剥がされた板の間にいくつも木箱が積み重なっている。埃っぽくないのは千花が掃除しているからだろうか。
「さて――」
 護堂は腕組みをし、暫し思案する。どの箱に手拭いは収められているだろうか。一番手前にあった木箱の蓋を開ける。中には女物の洋服が入っていた。息を吐いて蓋を戻す。千花の着替えだろう。
「……やれやれ」
 頭を掻く。親代わりとは云え、年頃の娘は扱いが難しい。
 どうも年を取るとそういう処に戸惑いを覚えるようだ。まあ――娘と会話など碌にした覚えがないのだから仕方あるまい。
 別の箱の中に手拭いの束を見つけ、いくつか取り出す。布巾もあったのでそれも持ち、部屋を出た。
 階段を下り店内に戻ろうとしたとき、護堂は休憩室に人の気配を感じた。
「璃宝か?」
 ちらりとそちらに視線をやり――護堂は目を覆いたくなった。
「……少しは恥じらいを持て」
「あら、こう云うのはお嫌い?」
 下着同然のあられもない姿で璃宝が嫣然と微笑む。
「早く着替えろ。……奏介はどうした」
「さあ? 一緒じゃないからわからないわ」
「そうか」
「男やもめは辛いんじゃない?」
「――莫迦言え」
 苦笑しながら護堂は返す。
「とうの昔に慣れちまったよ」

*    *    *

 陽は西の空に沈み、《CADENZA》は開店の時間を迎える。
「千花、すまないがそろそろ外に看板を出してくれ」
「はい、わかりました」
 木製の立て看板を抱え、千花が店の扉を開ける。
 彼女が外へ出るのと入れ替わりに、奏介が入ってきた。
「――遅いぞ」
「間に合ったからいいじゃねえか」
 反省の弁もなく、奏介は不貞不貞い態度でカウンタのスツールに腰掛け、煙草を取り出す。
「――煙草を喫うのなら外へ行け」
「判ってるよ」
 自棄っぱちに奏介は吐き捨て、立ち上がると今入ってきたばかりの扉から外へ出て行った。
 最初に銀座のバーで彼を見かけた時から、悪餓鬼の処は全く変わっていない。
「……やれやれ」
 嘆息し、カウンタの奥にある冷蔵庫を開ける。電気式の冷蔵庫は製氷器にもなっている。そこに氷が出来ているのを確認し、護堂は冷えていたボトルを取り出してグラスに注いだ。
「バーテンダーが仕事前からお酒を飲んでもいいのかしら?」
 休憩室から出てきた璃宝がグラスを奪い取る。
「ただの冷やした水だ」
「……みたいね」
 グラスに口を付けた璃宝が残念そうに呻いた。
「酒を飲むのは店が終わってからにしてくれ」
「あいよ」
 ひらひらと手を揺らめかせ、璃宝は再び休憩室へ戻っていった。

*    *    *

 最後の客を見送り、護堂は表の灯りを消した。
 相も変わらず――客は少なかった。売り上げが三十円いくかいかないかと云う処か。
 そのうち十円近くは、従業員が飲み食いしたツケなのだが。
 確かに、道楽でもなければやっていられない。
 使用したグラスや皿を厨房の千花の処へ持ち込み、洗い物を頼む。
「残りは私がやっておきますから、マスターはお先に帰ってもいいですよ」
「そうか」
 確かに、閉店後に護堂がする仕事はほとんどない。
「あっ……マスター、明日オリーブのピクルスを買ってきていただけませんか? そろそろ切れそうなんです」
「うむ」
 外套を羽織りながら護堂は答える。
「お疲れ様でした」
「ああ――ご苦労さん」
 護堂は厨房を通り抜け、裏口から外に出た。
 風が冷たい。
 もしかしたら今年の冬は雪が多くなるかもしれない。
 襟を立てて路地を歩く。
「……遅くなってしまったな」
 音もなく近付いてきた人影に声を掛ける。
「寒くはないか?」
 彼女は無言で頷く。
「ふむ――屋台でおでんでも食べていこうと思ったのだが――」
 彼女は依然無言のまま外套の袖を掴んできた。
「フッ――やれやれ」
 少しくらいの寄り道ならば問題ないだろう。
 バーテンダーであれ、おでんと熱燗の誘惑には弱いのだ。