彼は幸福だった。
軍人だった父の志を継ぎ、警官となって十数年。
妻を迎え、娘が誕生し、仕事も順調だった。
そのときまで彼は、間違いなく幸福だったのだ。
* * *
昭和七年、春。
彼は東京警視庁の捜査課に勤めていた。
勤務態度は優秀、勤務内容も良く、いくつもの難事件の捜査に関わり、成果を上げていた。
後輩にも慕われ、捜査の技術なども懇切丁寧に教えていた。
昇進も控え、順風満帆だった。
――そう、あの日までは。
彼がいつものように出勤したとき、彼の机の周りに人だかりが出来ていた。
彼に気付いた同僚が視線を向ける。
「何か……あったのか?」
そう訊ねた彼に同僚は憐れんだ――非難の視線を浴びせてきた。
「……なんて事やっちまったんですか……」
同僚の言葉に彼は首を傾げた。言っている意味がよく解らなかった。
「……課長がお呼びです」
後輩の有島が彼に声を掛けてきた。
「そうか」
嫌な予感はしたが、課長に説明を求めることは出来そうだった。
* * *
「……来たか」
応接室では課長がソファに腰掛けて煙草を燻らせていた。彼は向かいのソファに座ることもなく直立不動で控える。
「――今朝、総務から連絡があった。何の事かは判っていると思うが――」
彼には判らなかった。
「……何の事だか解りません」
だから、正直に答えた。
「……そうか」
課長は深々と溜息を吐いた。煙草の煙が拡がる。
居心地が悪い。
「女性事務員が君の不埒な行いを告発してきた。昨日の夕刻、君は何処へいた?」
「……捜査で……田町の方に」
「それを証言出来る者はいるかね?」
「……おりません」
彼は正直に答える。確かに昨日はひとりで捜査に出ていた。本来なら相棒がいる筈だったのだが、生憎非番だった所為だ。
後輩の刑事でも連れて行けば良かったのだが、もう後の祭りだ。
「彼女は君に性的暴行を受けたと言っている」
「莫迦なッ!?」
彼は声を荒げ、課長に詰め寄った。
「そんな莫迦な事がある筈がないッ!」
「――しかし私はそう報告を受けた」
課長の声は冷たい。
「調査は――」
彼は猶も食い下がる。此処は天下の警視庁だ。調査もなく人を有罪にする事はない筈だ。
「……調査をすれば我々以外にもこの件を知る者が出てくる。身内の不祥事を広める事は出来ん。その程度の事、君にも解っている筈だ」
彼は首を振る。
「……解りません」
「理解しろ。これは命令だ。……最後の、な」
課長は立ち上がり、彼の肩を通り過ぎざまに叩いた。
「荷物を纏めたまえ。君は今日を持って警察官では無くなるのだから」
* * *
反論も赦されず――彼は職を喪った。
上層部の決定に逆らうことはそれだけで罪なのだ。
婦女暴行で逮捕されなかったのも気懸かりだ。
これは何者かに嵌められたのかもしれないと、彼は考えていた。
とは云え――それを証明する手立てはなかった。
ただ肩を落とし、彼は帰宅した。
「おかえりなさいませ」
妻が玄関まで出迎える。彼は無言でその側を通り過ぎた。
「何か……あったのですか」
「……何もない」
低く答え、彼は居間へ向かう。娘は既に眠っているらしく、隣の部屋の照明は消えていた。
「お茶お淹れしますね」
着替える彼を余所に妻は厨房へ行ってしまった。今はそれがありがたかった。余計な詮索はされたくない。
甚平に着替え、畳の上にあぐらを掻く。戻ってきた妻が急須でお茶を淹れる。
「…………」
妻は何も喋らなかった。湯飲みが彼の前に出される。
「おい――」
彼は妻を呼んだ。
「なんでしょう?」
たおやかに妻は小首を傾げる。
「暇をやる。娘を連れて出て行け」
――それが彼の決断だった。
「これまで溜めた蓄えもくれてやる」
彼はそう言う事しか出来ない不器用な男だった。
「――解りました」
そして妻もまた、彼の言う事には唯々諾々と従う女であった。
* * *
こうして――彼はひとりになった。
彼が小さな屋台を引き、人々に小さな幸せを売り始めるのはまだ先の事である。